昭和51年11月09日 朝の御理解
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
昨日宮崎の佐田さんとこの、稲垣さんの弟さんご夫婦が、あちらの教会に参ってご信心なさっておられる。でここに宮崎につきまして支部が出来て、まぁいろんなお願いがここへなさる。先日から電気のあの器具の商売をやるけども、月末の支払いが出来ん。月初めになっても商いもなし。もう主人がもう何の為に信心しとるとやら、何の為に商売しとるとやろうかわからん。と言うてまぁクーッとしとると言う訳です。
それでどうぞよろしくお願いしますと言う、電話が3・4日前掛っとりました。その時に電話を私受け受けさして頂いた事が、先日もお話その翌日お話致しましたように、木編に古いと言う字を頂いた。もうこれは枯れるという心配。だからどんなに信心しておっても、毎日毎日参っておっても、心が枯れておってはそれを受けとめ、おかげを頂く受けものがない事になります。
神の言う事は道に落としてしまう。もう言う事を例えば聞いておるようであって、聞いてないのです。心が生き生きとしてない時とかは。言わば上の空と申しますね。ただ聞いておると言うだけで、心が生き生きしておりますと、その生き生きとした心でこれは、神様がその人その人に、おかげの頂けれるヒントを必ず与えて下さるのです。だからなら昨日なんか45分間も朝の御理解を頂きましたがね。その中にならここはと頂く。
私は昨日研修の時に、先生方が皆んな、あのまとめておるのを聞かせて頂いて、昨日はまちまちの頂き方、まとめ方をしておりました。だからどれが違ってどれがどうと言う事じゃないです。やっぱその人の頂きどころがある。なら昨日はここんところへ焦点を置いて一生懸命。もうここんところを繰り返し繰り返しと。と言う様な所は、先生方がひとつもそういう意味の事は、受け止めておったけれども、あの昨日申しましたですね、あの昔のどなたか知りませんけど。
歌の事から御理解を頂き、だいたい昨日の御理解はあの歌が芯だったんですよね。それで私は、昨日の御理解をまとめておるのに、あの歌の歌だけは控えておかなければいけない。しかもその歌が例えば大変難しい意味で、あのあれは歌を作った人もそうであろうけれども、私共もそうと頂いておった。けれども昨日の御理解から頂きますと、成そうと思うたら子供でも成せる事。その子供でも成せる事を疎かにしておる。それが大きなおかげ、大きな信心に繋がらないのだという御理解だったですね。
信心大きな信心にならん。そして玉水の湯川先生のご信心をまぁ聞いて頂いた訳です。成せばなる成さねばならぬ何事も。成さぬはあぁなんじゃったっけね。成せばなる成さねばならぬ何事も。ならぬは己がなさるなりけりと。まぁそんな歌でした、だからこれは皆さんもそうだったでしょうけれども、これは大変だけど難しい問題に取り組む時にです、ね、あのう本気でやる気でやれば誰でもやれるんだと。ただやる気がないのだと。もう大変難しい事に取り組む時に。
まぁ聞く言わば歌の、歌だとこう私共もこう思うとりました。けれども中々それが普通じゃ出来ないとこう言うんですけれども。昨日の御理解は、その教えからですね、なそうと思えば子供でもなせる事。をなさんと言う事ですね。だから今日の御理解頂いておってもです、もうなそうと思わなかった思わなかったら、やはりおかげはおかげは道に落としてしまう事になるのです。御理解を頂く。今日の御理解の頂きどころと。
それは銘々の信心の程度でですから、はぁここはという所を頂いて帰ったら、それを今日の行の上に現して行こうと、いうのでなかならければ道に落としてしまう事になるのです。宮崎から電話が掛かって来てる、佐田さんの場合もそうです。電話を頂き頂き心が枯れておる。だから心が生き生きする事の、事を先ず願わなければならん。それには何かささやかな修行でも思い出しなさい。
しおれかかっとる花でも根を叩いたり、根を焼いたりして水につけ、そこから水をこう吸い上げて生き生きとして来る様に、修行をもう一つ立てなさいと。本当先生もう修行がほんなこつ枯れてしおうとります。もう今夜から一丁大祓い信行を本気でやりなさい。ところがその大祓い信行をやろうと思うけれども、部屋が一部屋しかない。主人がまだ休んでおったり寝ておったりしておると、大祓い信行にもう主人がおずだっちゃかまわんけん。大祓い信行だけやんなさい。
もう大祓い信行いっちょで主人が起きて来るごたる、おかげを頂けばなおいいじゃないかと言う事で、本気でなら今日からやる気になったと言うのです。大祓いを一生懸命、5巻なり10巻なり上げさしてもらう。ところがその気にならせて頂きましたら、その日の内に思いがけない所から二十万の入金があったと。ほんとに打てば響くようなおかげ。やる気になったからおかげになる。生き生きとしたおかげは言うならば、降るようにやっておるけれども、それを自分の生き生きとした心で受けとめきらない。
参ってはおる御理解は頂いておるけれども、本気でやる気がない。やろうと思うたら誰でもやれる事をやる気がない。それではおかげにならん。宮崎の支部のが結成して初めての共励会が昨日、一昨日もたれたそうです。黒木さんのお宅であった。それで昨日その佐田さんの電話を聞かせて頂いておりましたら、もう家の主人はよそへ行ってから、ご飯を呼ばれたりは絶対しない。ところがもう本当に有り難い事に、共励会私一緒に参りました。したらあちらではぁもう大変有り難い。
、そのう延岡からも参加があって、熱心な信心の共励がありましておかげ頂きました。主人もそれに一緒に参加させてもらって、あちらでご飯までよばれたり、それからお風呂まで入る。今まで且てない事でしたと。それがその前日生き生きとした信心、生き生きとしたおかげを受けておるから、言わば心が生き生きしておる時が、人間は誰でも素直になれるもんですね。信心の有り難さが生き生きしておる時には。延岡から田中さんが、出席しておりましたそうですがね。
その田中さんの送られる帰られるのに、僕が送って行こうと言うて送られたと。田中さんからもその事の、お礼が昨日電話で掛っておられましたが。福岡熊本間2時間くらいかかるそうです。ぐらいな道のりだそうです。そけん宮崎と延岡は近いと思っとったらこんなに遠い。そういう例えばなら御用でもです、生き生きと有り難く出来る。だからまた次のおかげを頂く事が出来るんです。だからそういう心の状態をいつも、私は頂いておく精進をしなければ、言わば御理解を頂いても。
道で落としてしまうどころか、もう道にでらん前に、ええっと今日の御理解どげなん御理解やったろうかというごたる事になってくるのです。全部覚えとく事はいらん。ここはと言う所だけ。今日本気で行じさせてもらおうと。今日一日の信心の焦点と言った様なものをです、私は頂ける心の状態を作っておかなければいけないと思う。昨日は豊後森の坂井さん達が夫婦でお参りされた。親戚兄弟やらおばさんやらというね、もう大変難儀な問題を抱えておられる人やら、体の弱い人やらをお導きして参って見えられた。
ところがそれがちょうど私が、お手洗いに立っておる時に参って来とる。それではぁ今日先生おらんと思うたっち。もうガッカリしたと言う訳です。そしたら私がここからこうやって、あぁ先生が襖の向こうから出て来た、出て来たもうまぁここ辺の言葉で言うならです。もう本当にその時の喜びというものがね、もう本当に有り難くここへ出て来てから、涙ぐまんばかりその事を喜ばれたんです。私は生き生きとした心というのはそう言う心だと思うですね。がっかりしとったのも早かけども、生き生きするとも早か。
けれども教会という所は、そういう働きのあるところです。私は神様の御演出だったと思うですね。ただ参ってきた先生が座っとった。はぁ良かっただけじゃなくて、それこそ涙が出るほど有り難くはないでしょうね。居らんと思うとったところが、先生がそこから出て来た出て来た。というわけです。もうその心がおかげをキャッチして帰るんです。だからそういう言うならば神様の御演出もあっておる事ですから、私共もその気になるとです、もうはぁ今日何にも頂けれるものがなかったけれども。
ただで帰ったんじゃ折角お参りしたから勿体無い。と言う様な一つの求める物があるならね、もう帰りがけにでも、神様が与えずにはおかんという働きを必ず下さるです。私最近なんか同んなじような傾向というか、あのうあるのこの2・3日感じておるんですけれども、昨日一昨日でした、日田の方から始めてお参りして来た方がありました。それで私はその前日の御理解を、その人に同じような感じのお願いでしたから、話さして頂いておりました。それはあの久留米の古田さんの話をさして頂いた。
ちょうど昨日一昨日がでしたかね、退院のおかげを頂き新たな生命を頂かしてもろうたと。それから先ず一年にならせて頂いて、改めてまたお礼の参拝をなさった。お供えを末永先生にお供えしてくれと言うたら、どう間違えたもんか、末永先生が霊様の方へお供えをしようと致しましたから、違う違うそれは神様のじゃがと。と言いながら私はそん時思うた。ほんとに一年前言うなら無い生命であったかもしれなかった。言うならば霊様でもう一年後の、今日は受けなければならなかったのが。
おかげを頂いてこの様な元気な姿で、お礼参拝が出来てその後、一年間おかげの話をその人にさしてもらいました。あれはあの無い例えば生命を頂いたと。そげな事はなかろうやっぱ助かった。そげんなかなか思えないもんですよね。自分もあのおかげをた頂いたと思うとっても、本当にない生命を頂いたと言う様な実感が、あればあるほど信心は有り難くなって来る訳です。おかげはあんた腑が良かったんじゃろう位な事では、有り難いものが薄いです。
そういう話をしとる時にですね、ちょうど井出さんが一緒に参っちゃった。今あの日田で美容院をなさっておられます。はぁ先生その古田さんの事なら、私が看護婦時代にあのう受け持っておった患者さんですっち言うんです。もうあの自分にあの看護婦の仲間で、この人があのう良くなって退院できると思うた者は、誰ぁれもおりませんでしたって言われるです。だから私の話が本当にない生命を頂いたと、いう実感がこちらへ伝わっていくわけです。実証する人が側にあるから。私も始めて聞いた。
言うならあなたもと看護婦さんじゃったですか。はぁ私が看護婦時代に受け持っとったのが、あの古田さんでしたとこう言うのです。もう此の方が大変感動されましてね。その裏づけを聞かして頂いてから。先日から田主丸の直腸癌でおかげを頂いたという、鳥越さんの場合もそうでした。そのお礼に出てくる前日に、私はあの柿がりに行ってから、その方の甥の何十年ぶりに、私も会い秋永先生もでしたけれども。池尻盛男さんという方に会い、その話の前後に出て来るところの。
あのう小西さんと田主丸の町でばったりと言うか、こちらは自動車ですから、ちょうど自動車がゆぅるくいっとる時に、すぐその窓際を通っておられたのがその小西さんでした。その小西さんとそのもりおさんの、というのが話がもう繋がってるんです。いやその直腸癌でおかげを頂いた方と道が繋がっておるんです。もしそれが繋がっておってもそういう事がなかったら、私自身ですら本当に腑が良かったじゃろうと思うたかもしれないくらいな事でしたけれども。
そういう働きを頂いておったから、なんと神様のおかげを頂いておるんだと言う事が感じられたんです。昨日一昨日、富永先生のところの霊祭でしたが、御直会を頂いております時に、まぁここで修行しております岩井千恵子さんが、もうびっくりしております。向うもびっくりしておられます。隣家のすぐ弟さんが、その当時岩田屋に勤めておられた。それが岩田屋でほんな隣のところで、一緒に御用頂いておった方だったそうです。いやあ、岩井さんあんたが金光様の先生になっとるなんて、もう意味知らなかった。
思いもしなかったと。そう言う様な事からです。なんかその霊祭がなんか生き生きしてくる。やはり霊様のお引き合わせと言った様なものを、まぁ信心のない方ですけれども何とはなしに感ずる雰囲気がそこに出てくるんです。そういう言わば生き生きとして有り難いと思わねばおれない働きをです、最近特に感じるです。だから皆さんでもね、そういう生き生きとした心を、頂かして頂く為に修行をなさる。またはここのお広前ではそういう働きが必ずあっておる。
もう一つ昨日一昨日の御理解で、あのうあれは心筋梗塞かなんかという、おかげを頂いた話をしましたね。それがそのう福岡から参ってきてその御理解を頂いてからあの、今日おかげ頂いてお礼に出て来たというあれは私の姉でございます。兄弟中でもう今度は姉は助かりきるねって言いよったのが、もう本当にそげんおかげ頂いてお礼に出て来るほどしの、おかげを頂いておりますかちゅうて、びっくりしてあるその日の御理解を頂かれました。不思議な事ですね。
滅多に参って来る人達じゃないのですけれども。そういうその御理解を兄弟のその方が聞いて、今日おかげの話の中に出て来ておるのは、私の姉だと言うのです。なんかそう言う働きがあっておる事を感ずるでしょうが。それはどう言う事かと言うと、神様がおかげを頂かせずにはおかんという働きがあっておるのです。だからどのように神様の働きがです、あっておるおりましても、こちらの心が枯れておっては、それをキャッチする事が出来ません。
道で落としてしまう事であっては勿論なりませんが、道で落とすものですらも頂かずに帰るような事ではいけません。それを本気で行ずる気になる。それを今日1日の信心の言わば、焦点と言った様なものを日々頂いて、おかげを頂く時に、おかげはそれこそ例えば響くように、宮崎の佐田さんの例じゃないですけれどもね、打てば響くようなおかげを頂いておる。その生々しいおかげと感ずる実感がです、次の共励会に生き生きとして、今まで且て見た事もないような、主人の姿を家内が見ておる。
また自分自身も生き生きとして御用も出来ておる。信心の共励も出来ておる。そういう雰囲気をいつも私は頂いて行く。昨日の御理解の中に、私はっきり忘れておりましたから、昨日これ富永さんとこの霊祭の時に頂いた、御理解をもう一辺聞かして頂いた。霊祭の時の御理解を。それをらしく振る舞える信心と言う事でした。らしく振る舞える信心。金光様の信心をするなら、金光様の信心らしく振舞えるようになったらもう一人前だと。それから先はもう限りがないのだと。
だかららしく振舞える信心というのはです、なら教えを本気で行じておると言う事なんです。頂いておるという事だと思うんです。だからいわゆる信心、信者らしく合楽の信者らしい、振舞える日々があるわけです。佐田さんじゃないですけれども。何の為に信心しとるやら、何の為に商売しとるやら分からん。もう既に神様を自分がおかげを頂ききらんでおいて、神様を恨むような事を言うたり思うたりする訳です。何の為に信心しとるやら分からん。なるほどお願いはしよる。毎日○○教会にはお参りはおる。
けれども言うなら無味乾燥な心の状態で、参ったり拝んだりしてもおかげ頂けるはずがない。神の言う事は道に落としてしまい、我が勝手にして神を恨むような者があるとある。自分が神様の言う事を聞かずしておいてです、神様が言う事を聞いて下さるはずがない。合楽にはねそういう気で、お参りされると生き生きさせずにはおかんという働きが
(途中切れ)